HSインタビュー vol.17−1: 荒木 節子さん(帯染色作家)「情熱があれば、何歳からでもチャレンジできる(前編)」

第17回目のゲストは、荒木 節子さん

Heading Southは、ありたい自分に向かってチャレンジするひとに寄り添い、応援したいとの思いを軸に活動をしています。

自分らしさを大切に、強く美しくしなやかにチャレンジする人々の気持ちを後押しし、そんな素敵なひとが増えることを願ってお届けする「HSインタビュー」の第17回のゲストは、荒木 節子さんです。

50歳手前でデビュー。遅咲きの帯染色作家さん

荒木さんは、帯の染色作家。40歳を過ぎたある日、手違いから引き取った無地の帯揚げを自宅で染めてみようと思い立ったことがきっかけで、染色の世界にのめり込んでいきました。作家デビューは50歳手前と遅咲きながら、デビュー早々、テキスタイル作家の展示スペースとして高名だったワコール銀座アートスペースでの単独企画展に招聘されるなど、新人ながら異例の速さで作品を認められ、以来20年超にわたりご活躍されています。

幼少から高校時代までは自分を外に出すことができなかったという荒木さん。お話をお伺いし、写真、陶芸、書道と異なる芸術領域での長い学びの時間を重ねられ、導かれるように自分を開放し自由に表現することのできる現在の場所に辿り着かれたように感じました。

美しい絵画のような荒木さんの作品

荒木さんの帯は、美しい色が連なり、まるで風景画を見ているよう。染めの技法も、シルクスクリーンのみからスタートし、現在は、刷毛やへら、テーピングなどを使用した独自の技法を用いています。風景を物語に昇華させて、ひとつの絵画のように表現された帯は、美しい色が流れるように重なります。一反一反が手作りゆえ、全てが唯一無二。個性のある帯は、着こなしの主役になるものばかりです。

また、荒木さんが既成概念に囚われず、自由な発想で独自のスタイルを確立されたのは、異なる芸術領域での長きにわたる学びが着実に血肉となっていることに加えて、その時代をリードしていた著名な友人や、多彩な芸術家仲間など、荒木さんの感性を常に刺激してくれる環境に恵まれたことも、才能を開花させた大きな要素だったのではないかとの思いに至りました。

「好きだ、やってみたい」という情熱さえあれば、何歳からでもチャレンジできる

笑顔がとっても可愛らしい荒木さん。ふんわりと優しい語り口ながら、一度決めたらとことんまで極めようとする芯の強さや飽くなき向上心が窺えました。荒木さんのお話から、「好き」という自分の感情に素直に向き合うことの大切さや、「やってみたい」と思う情熱さえあれば、幾つになってもチャレンジはできると、背中を押されるような気持ちになりました。

荒木さんの壮年期からのチャレンジのお話、是非お楽しみいただけましたら幸いです。

荒木さんは、010 Arancione Zucca(オレンジ)を、廣田は、002 Ocra Rossa(ベージュ)をそれぞれ合わせています

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廣田: 本日は貴重な機会をありがとうございます!

荒木さんは、50歳を手前にして帯の染色作家としてデビューされたとお伺いしました。そのご年齢からの作家デビューとは、なかなか珍しいようにお見受けしますが、そこに至るまでのお話を是非お聞かせください。幼少期からアートにはご興味があったのですか?

荒木さん: いえ、幼少期はアートにそこまで興味はなかったですね。子供の頃はひとりぼっちで過ごすことが多くて、小中高は殆ど友達もいなかったんです。外に自分を出さない子どもだったんですね。

ただ、私は和歌山県のお寺の子として生まれたこともあって、歴史は好きで。高校のときに読んだ東西文化の本をきっかけにもっと深く勉強したいと思って、大学進学と同時に上京して、文学部史学科で学びました。とは言うものの、いざ入学すると、さほど勉強もしなかったんですけれどもね(笑)。

会社の先輩との喧嘩で、入社前に就職を取りやめる

荒木さん: 大学時代は学生新聞を発行するクラブに所属していて、取材することや原稿を書くことを経験しました。当時は、女性の社会進出が認められ始めたばかりで、まだまだ女性の職場自体が少なかったのです。ただ、私は新聞部に所属していたこともあって、外資系の広告代理店での採用が決まったんです。

採用された会社から、4月の正社員入社よりも前にインターンとして働いて欲しいとお願いされて、入社前から働くことになったのだけれども、そこにいた男性の先輩がとっても意地悪な方だったの。で、入社前に喧嘩しちゃって、結局、就職を取りやめてしまったんです。

当時は女性の働き口はとても貴重だったから、大学の教務課でこっぴどく叱られましたね(笑)。

廣田: あらら、出だしからそんなことがあったのですね(笑)。就職先を断って、どうされたのですか?

流れるように美しい色が連なる荒木さんの帯。それぞれに個性があり、着こなしの主役になるものばかり


著名写真家のもとで働くことに

荒木さん: 4月から働き口がない私に、世界文化社から独立した女性が率いる出版社でのバイトを知り合いが紹介してくれて、そちらでお世話になることになったんです。

暫くすると、この先のことを心配してくれた職場の方が、カメラマンの中村正也さんがアシスタントを探しているから、そこで働いてみたら?と声を掛けてくれたんです。中村さんは、CMやヌード写真の分野で活躍し、後に日本広告写真家協会会長を務めた著名なカメラマンでした。

廣田: いきなり著名カメラマンのアシスタントだなんて、すごいですね!

荒木さん: いえいえ。カメラマンとしてのアシスタント業務は男性が複数名でサポートしていて、私は事務や雑務的なことを任されたんです。

元新聞部の腕を活かし、仕事の幅が広がる

荒木さん: ちょうど、時代的にスタイリストが仕事として出始めた頃だったから、スタイリスト的な仕事もやったりしましたね。

中村さんがタレントの杉本エマさんのヌード写真をアフリカで撮影した「エマ・ヌード・イン・アフリカ」という話題になった写真集があったのですが、その撮影で、ロケーションスタッフとして中村さんと杉本さんと一緒にアフリカで40日間滞在したりね。今みたいに気軽に海外旅行に行ける時代じゃなかったから、色々と貴重な経験をさせてもらいました。

廣田: えー、それは素晴らしいですね!お仕事も単なる事務的なものから大きく広がっていかれたのですね。

30代半ばまでは、写真と陶芸のサポートに従事

荒木さん: そうですね。ただ、30代半ばくらいまで中村さんのサポートをしていたのだけれども、体調を崩してしまって辞めることになったんです。

実は、就職して間もないタイミングで、芸大を卒業して陶芸家になった彼と結婚したんですが、自宅に窯を構えていたこともあって、そっちのサポートも並行してやっていたんです。

廣田: カメラマンとご主人である陶芸家のサポートを両立されていたとはすごいですね。

荒木さん: そうですねぇ、ひたすら誰かのサポートをしていた時期でもありましたね。

笑顔がとっても可愛らしくて素敵な荒木さん

次に始めたのは、なんと書道!

廣田: ところで、染色はまだ出てこないのですね?

荒木さん: まだですね。実は、次に始めたのが書道なんですよ(笑)。

体調が戻ってから主人のサポートだけだと時間が空くようになって、何かをしたいと思って始めたんです。ただ、やるんだったらきちんと学びたいと思って、書道教室ではなく、書道専門学校に通い始めたんですよ。

廣田: えっ!?染色じゃなくて、次は書道だったんですね(笑)?

大人になってからの習い事って、もっと軽いものが多いように思うのですが、どうしてわざわざ専門学校にまで通おうと思われたのですか?

荒木さん: 幼少期に書を少し習っていたこともあって、きちんと学びたかったんです。あと、子供たちに教えたりとか、将来的に仕事にできたらいいなと当時は思っていたんですよ。

一字書にのめり込み、第一人者に師事

荒木さん: 書道は、先生によって書体や持ち味が異なるんですね。学ぶうちに大きい一文字で表現する一字書がとても面白くなって、その分野の第一人者で、独立書人団の創設者でもある手島右卿(ゆうけい)先生のところで学びたかったんです。

ただ、手島先生の研究科は試験がとても厳しくて、毎年生徒は募集されるものの、受からないことで有名だったんです。

私は、受けても受からないんだったらと思って、他の先生の研究科に通っていたのですが、ある年、手島先生がこれで教えるのは最後だという話を聞いて、思い切って受けてみたんです。そしたら、その年受けた人はみんな入れてくれることになって、幸運にも師事できたんです。

様々なカラーをご試着いただき、010 Arancione Zucca(オレンジ)をチョイス!


結局、9年近く書を学ぶことに

荒木さん: 書道はね、作品を作り出すと面白くなるのですよ。書って瞬間的なものじゃないですか。集中して何回も何回も書いて、その中で一枚良いものが取れたらいい。

たいてい書き始めの頃に良いものが一枚できるんですけれども、そのまま続けても、それ以上のものがなかなかできてこない。で、締め切りが間近に迫って、ようやく「書けた!」という瞬間が来て、一枚の作品が取れるという感じが多いのです。何枚も試行錯誤して、ある瞬間に「書けた」という感覚が生まれる。それが面白いんですよ。

結局、3年間夜間の学校に通った後に、研究科で手島先生を含めて3人の先生のもとで5〜6年学びました。

廣田: えっ、合計8〜9年も書道を学ばれていたんですね!?驚きました。そこまでやって、書道家になろうとは思われなかったんですか?

書をもっと自由に楽しみたかった

荒木さん: 毎日書道展とか独立書人団の展覧会に出展したりはしていました。ただ、書道界は階層型の組織体系だから、なろうと思って書道家になれるほど簡単ではないんですよ。

書は好きだったし、手島先生も好きでしたけれども、これまでも自由な環境で働いてきたし、組織に揉まれるのが元々好きじゃない。結局、手島先生が他界されたのを機に、書道はやめてしまったんです。

廣田: 長く続けられたのに勿体ない感じもしますが、そんな背景がおありになったのですね。

いざというときはお着物をお召しになる荒木さんですが、この日は洋装でお越しくださいました!

染色との最初の接点は、お着物

廣田: そして、これまでのところ、染色も帯も全く接点がない感じですよね(笑)?

荒木さん: うふふ、そうですねぇ(笑)。染色との最初の接点は、お着物なんですよ。お着物は、子供の頃から好きだったんですけど、着る機会もなかったですし、大人になってからも、お金が掛かるから気軽に買ったりできないし、着ていく場もないしという感じだったんです。

ただ、主人の実家が丹後縮緬(ちりめん)の産地で、親戚のおばちゃん達が丹後縮緬を織ったり、問屋で働いたりしていたこともあって、傷物などを安く仕入れることができたんです。傷物といっても、ほんの少しの織ムラがあるくらいなので、とてもお買い得だったんですね。

芸術家の友人・知人が周りに多かったから、演奏会を開催するときのお着物を安く仕入れてあげたりして。私自身も傷物などを着始めたんですね。


高田喜佐さん、大橋歩さんなど、時代をリードする友人たちとお着物を楽しむように

荒木さん: その頃、ファッションシューズ・デザイナーとして一世風靡したKISSAの高田喜佐さんや週刊「平凡パンチ」の表紙のイラストレーターとして人気を博した大橋歩さんに可愛がってもらっていたんだけれども、みんな着物にのめり込んでいたんです。

ピアニストの演奏会に3人揃って和装で出かけようよって、3人3様の羽織を作ったりもしたの。お出かけの機会があると、着物を着る機会が増えて、それがだんだん日常になっていったんです。

廣田: えー、KISSAの靴とか、母が好きで履いていましたし、私も好きでした!それにしても、時代を先取る錚々たる方々といつも一緒にいらしたんですね。お仕事の関係ですか?

荒木さん: いいえ、芸大出身だった主人の仲間がよく自宅に出入りしていて、そこから交友関係が広がって行ったんです。

KISSAの高田喜佐さんとも親交が深かった荒木さん。靴のこともお詳しく、話に花が咲きました!

芸術界で活躍する友人たちに多くの刺激と影響を受ける

廣田: 芸術家や、アートの世界で活躍されている方が周りに多い環境だと、荒木さんのその後の作品に繋がる良い刺激もたくさんあったのではないでしょうか?

荒木さん: まさにそうですね。例えば、大橋歩さんは、着物好きが高じて本も出版されているんです。着物は伝統的なものだけど、その伝統を否定するのではなく、大橋さんのテイストで選んで、自分のスタイルで着物を楽しむということをなさっていた。

当時、とても斬新だったその発想は、まさに大橋さんの提案なんですね。
その着物に対するスタンスは、大いに影響を受けましたね。

また、自分の世界を表現する人達が周りに多かったから、「間違っている、いない」ではなく、それぞれ自分を主張して、好きなことを築いていく大切さを教わったと思います。

廣田: なんとも素晴らしい環境にいらしたのですね!

手違いから買い取った無地の帯揚げを自宅で染めてみた

廣田: さて、荒木さんが日常的にお着物をお召しになるようになって、いよいよ染色との出逢いでしょうか?きっかけは何だったのでしょうか。

荒木さん: ようやくですね(笑)。きっかけは、本当に偶然なんです。

ある日、友達の友達で直接面識のない草木染の先生からの依頼で地紋が入っていない無地の帯揚げを頼まれたんです。丹後縮緬は地紋が入っているのが普通なのだけれども、簡単だからと、おばちゃんがわざわざ地紋を外して、無地のものを作ってくれたんです。ところが直前になって、他で買うからいいわって、一方的に断られたんです。

20枚くらい頼んでいて、しかも、特別に対応してもらったものだから断るわけにもいかないし、結局、自分で買い取ったんですね。数ヶ月くらいそのまま放置してたんだけど、「もったいないし、自分で染めてみよう!」とある日、思い立ったんです。染めのことは全く分からないから、一番簡単な絞り染めの本を書店で見つけ、田中直という染色の専門店で染色材料を買って、本を見ながら見よう見まねで染めてみたんです。

20枚もあるから友達にあげたんですけど、みんなとても喜んでくれたんですよね。

それを機に染色の世界へ。どこまでも勉強熱心な荒木さん

廣田: 初めての染めなのにすごいですね!

荒木さん: いや、決して良くできたわけじゃないですよ(笑)。でも、みんなとても喜んでくれた。で、それを機に染色をやってみようと思って、絞り染め作家として著名な安藤宏子さんの講座に1年くらい通ったんです。

廣田: 荒木さんは本当に勉強熱心ですね。決めたら、とことん突き詰めるタイプ(笑)!

荒木さん: うふふ、そうかもしれないですね(笑)。

 (後編に続く)




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【プロフィール】

荒木 節子
(あらき せつこ)
帯染色作家

和歌山県新宮市生まれ。立教大学文学部史学科卒業。大塚テキスタイル専門学校で染と織を学ぶ。カメラマン中村正也氏のアシスタントとして13年間従事する傍ら、陶芸家である夫のサポートを続ける。その後、10年近く書の世界に入るも、着物と出会い、手違いから引き取った無地の帯揚げを自宅で染めてみたことをきっかけに染色の世界へ。50歳手前より染色作家としての活動を始める。遅咲きながら、デビュー早々、テキスタイル作家の展示スペースで高名だったワコール銀座アートスペースで単独企画展に招聘されるなど、新人ながら異例の速さで作品を認められ、現在まで20年超にわたり帯の染色作家として活動を続ける。


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